2017年01月14日

対馬丸記念館

あぐので皆さん、元気ですかぁ。あっという間に2017年ですね♪
今年も、ゆたしく、うにげーさびら〜♡
一年ぶりにblogへの登場で〜す。今回は対馬丸記念館について調べてみました。

対馬丸について知ってましだかぁ?! 学生の頃、社会科で勉強したようですが! 私は、覚えてなくて、記念館が、出来上がってから知りました。沖縄の事、なにも知らずに育ったんですね(_ _).。

対馬丸記念館


対馬丸記念館は戦争で起こった歴史的事実を未来へ伝え継ぐ、戦争と平和、命の尊さについて考えてほしいとの思いで2004年に建設されました。

対馬丸記念館

(学童疎開船対馬丸)
昭和16年12月に始まったアジア太平洋戦争、徐々に敗戦を重ねるようになり、昭和19年7月サイパン島が占領され、『次は沖縄だ』政府は沖縄、奄美の高齢者、子ども、女性を島から疎開させる命令を出します。沖縄からの疎開は、本土の田舎への疎開と違い、学校単位(国民学校)なので、学童集団疎開と呼ばれ九州の宮崎、熊本、大分へと疎開しました。8万人の疎開疎開の予定でしたが、約1万人が行き、その後、敗戦となる。

昭和19年8月21日、那覇港から長崎に向け出航する。疎開船は軍艦である事が絶対必要な条件でしたが、対馬丸は老朽化した貨物船。そんな船に乗せての疎開、親も子も不安でいっぱい!!でした。

対馬丸記念館

また、船内は、人でぎっしり蒸し暑くて寝る場所もなかったようです。台風も近づいていただめ波も高く船酔いする子どもたち!

中学生時に船で沖縄本島へ修学旅行に行った時、玉龍だったかな?!あの船で9時間の旅、吐いて辛かった事を思い出しました。それの何倍も大変なのでしょうね。比べるのも失礼かと…。

那覇港を出港した対馬丸は、始めからアメリカの潜水艦ボーフィン号の攻撃の対象であり追跡されていた。そして8月22日、22時12分、みんなが眠り静かな時間帯にトカラ列島悪石島の北西10キロの地点で魚雷攻撃をうけ10分足らずで沈没。ほとんどが船内に取り残されました。
脱出に成功した人達も居たが台風の影響で多くが犠牲となった。学童780人を含む1485人が帰らぬ人となりました。

対馬丸記念館

救命具をつけ、イカダやいろんな物にしがみつき、暗い海、昼間でも果てしなく続く海を何日も漂流した。6日目に佐世保所属のパイロット達により発見される。そして、近海で漁をしていた宮崎の海洋丸、鹿児島の栄徳丸に救助された。

子供を疎開させる、何日も漂流する!想像出来ませんよねぇ。
記念館には、対馬丸の模型やイカダにしがみつく学童を模した人形、昭和19年の教室の再現、犠牲者の遺品、その当時の資料が展示されています。残念ながら撮影禁止でした。

対馬丸記念館
                                 < 資料館パンプレットより >

対馬丸記念館

いま『対馬丸が、語ること』 理念
私たちは、考えました。
今、『対馬丸』を語ること、それはなんでしょう?
戦争のこと?それとも平和?
本当に語って欲しいこと、それはいまそこにあるそれぞれの夢のことです。
暗くつらい戦時でも、夢は持っていました。でも生きていればこその『夢』
犠牲になった彼等の無くしてしまった『夢』彼らが持っていたであろう未来への
『夢』その『夢の未来』に私たちは、生きています。
この館に身を置いたら、かんじてみて下さい。

この館には、犠牲者の数と比較して遺品など、物があまりありません。
どうしてでしょう。
あまりにも長い時間たったから?
思い出を残そうとしなかったから?
沖縄戦では、多くが焼かれ破壊されました。
形あるものは失われました。
しかし人々の『想い』は決して失われません。
人々の想い、それは平和への強い希望です。
悲しみの大きさを『希望』にかえる努力をしないと
憎しみが報復の連鎖を呼びます。
しかし報復の連鎖で悲しみは、癒されるでしょうか?!
いま、対馬丸が、語ること、それはなんでしょうしょう。
今も、世界では報復の連鎖が子どもたちの新たな夢と希望を奪っています。
報復の連鎖を断ち切ろうする努力をすること
それこそが、対馬丸の子どもたちから指し示された、私たちへの『課題』ではないでしょうか。


この詩の 『夢』という言葉が何かしら胸に響きました。戦後に産まれ平和であることが当たり前のように育ち、将来は、◯◯になりたい! 離島でなく本土に行きたい。大なり小なり夢や願望があったと思う。今でも、身近な事で、旅行いきたい、おいしい物食べたい!! あれ欲しいなぁ。たのしむ事が出来ます。
それが当たり前と思っていたが、そうではないように感じた。戦争を体験した方達が平和な日々を作ってくれたのだと深く感じた。この日がずっと続くように私達は努力しなければいけないと思いました。


旭ヶ丘公園(小桜の塔)
対馬丸記念館の後ろ側、波の上宮の東側に旭ヶ丘公園と言う小高い丘の公園があります。

対馬丸記念館

小さな公園だが、展望台や椅子もあり、遊歩道になっており緑に囲まれ、波の上ピーチも見え、波の音も感じるイイ散歩コース!!

対馬丸記念館その公園内には、複数の慰霊碑が建てられている。
その中でも、大きくて入口から見える所に『小桜の塔』がある。疎開船対馬丸で犠牲になった方達の慰霊塔である。

愛知県のすずしろ子ども会が、沖縄に子どものための慰霊塔がないので、作りたいと募金を集めて沖縄に贈られたとの事でる。

昭和29年5月に 塔は那覇港に向け建っている。那覇港から出港したからでしょう。
毎年6月には子供たちによる清掃活動、平和学習が行われでいます。また、慰霊祭も行われています。

また、公園には大きさガジュマルの木があり、木の名前が、『ふんばるガジュマルの木』(下写真戦没新聞人の碑の後ろに延びるガジュマルの木)の傾斜で不安定な場所に根をはり、たくましく成長してる姿を対馬丸で生き残った子供を想い、小学生により、命名されたとの事。

生き残った学童はりわずか59人であった。戦後、沖縄に帰り復興や平和学習に尽くされたそうです。対馬丸で生き残った人々は33回忌が終わるあたりまで、謂れのない言葉に怯えて外出するのも控えていたようです。

生き残っている事で、いろんな事を言われてのでしょうか?!これを思うと戦争がもたらした悲劇!漂流し必死の想いで帰ってきたのに、沖縄の平和のために頑張ってるのに何故とか思ってしまいました。

対馬丸記念館

また、戦争新聞の碑、沖縄三線の古典、野村流の慰霊碑、琉球王朝のために尽力された謝花親方の慰霊碑もあった。

対馬丸記念館

また『海鳴りの像』には、少年航空隊に召集されて本土へ行く途中の少年、軍事工場にいく若者達、命令により南方方面から帰国、満州からの帰国、対馬丸以外の船舶26隻で犠牲になった1927名の慰霊碑である。我が子を抱いている母の姿なのでしょうか!


今回は、平和学習をしたblogになりました。曇り空、少し風があったけど、那覇の海もなかなかキレイ♡ でしたぁ。みゃーくの海には負けるけど〜ね⤴⤴

対馬丸記念館

遠くに、あまり人気がないかな?!大きなシーサーもみえる公園で〜す。

対馬丸記念館

最期まで読んでくれた、あぐの皆さん、ありがとうございます。

                                       記事はクミコでした。


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Posted by アグが華 at 10:13│Comments(8)まーん会
この記事へのコメント
kumikoお疲れさまでした。
対馬丸、漠然と名前だけを知っていた感じかな。

学童疎開の言葉の意味も含め今回の記事で、たくさん勉強させて
貰いました感謝です。

「ヤーサン、ヒーサン、シカラーサン」
この言葉だけでも当時の現状が伝わってくる切ない言葉ですね。

『海鳴りの像』
いつだったか九州知覧の特攻平和館を訪ねた事がありますが
沖縄戦へ向かう少年特攻兵の遺品やら資料にやり切れない思いで
帰って来た記憶があります。

もっと多くの史実を私たちは知らなければならないんだよね。
自分の不勉強さに反省の今回の記事でした。

            ひでみさんでした~~♪
Posted by アグが華アグが華 at 2017年01月14日 10:33
対馬丸記念館には2度行き、息子や娘達(当時、那覇在)とも行きました。「海鳴りの像」の前で手を合わせたことを思い出す。あの碑の前に行くと胸が締め付けられる思いがします。対馬丸を撃沈した潜水艦は、何故「対馬丸」に魚雷を発射したのかが不思議でなりません。どう見ても軍艦ではないことは明らかだと解るはずなのに・・・。疎開に出した、当時の親の気持ちを思うと残念でたまらないよね。今年こそ世界が平和になって欲しいものです。
久美子さん、お疲れさまでした。
Posted by アララガマランナー at 2017年01月14日 13:23
ひでみぃ〜〜
アップ、コメントありがとう(^O^☆♪
私たち沖縄の歴史知ってるようで、知らない事たくさんある気がしたよ。わたしも勉強になりったよ。何が悲しい歴史だよね(>_<)戦争中、戦後も大変!!今でも基地で揺れてる沖縄。
ニュース見るたび、悲しくなりますよ。
久々に書いたので上手く書けてるか心配でしたが内容わかるみたいでよかったで〜す。
Posted by クミコ at 2017年01月14日 16:14
ケンイチしゃん
お疲れ様です。沖縄にも冬到来かぁ。寒いね。
あの当時、対馬丸以外の船舶も魚雷発射したみたいですね。そこまでしないと戦争が終わらなかったんですかねぇ?!!複雑な気持ちになりますよ。ほんと戦争がなくなることを切に願ます。破壊や悲しみ、その他いい事なにもないもんね!!コメントありがとうヾ(^▽^*)))
Posted by クミコ at 2017年01月14日 16:42
クミコ、ブログ記事お疲れ様ヽ(*´∀`)
大変だったでしょう

ヒデミもいつもアップお疲れ様ヽ(*´∀`)

対馬丸の疎開の話はずっと昔に聞いた事あって、
その時に相手国に対して激しい怒りがこみ上げて来たのを
覚えてるよ。

もう4〜5年ほど経つかなぁ?
佐野の方へ戦争を生き抜いた沖縄の女性、もう大分高齢だったけど
沖縄戦体験の語り部として来て下ったので、戦争体験談を聞きに行った時には、相手国だけじゃなく日本政府のお偉方にも腹立たしかったよ。
沖縄戦の20万人以上の犠牲者は・・・
沖縄をないがしろにした同国の上層部にありと・・・
クミコの言う通り沖縄は未だに戦争が続いてる感じだよね。

私の職場の人が以前に口にした言葉にショック!!
戦争があると経済が発展する
あ、デモこれについてはこれ以上はやめる。

自己的な権力やお金に貪欲な人が減り、世界平和を願いたいね〜
私達の子孫が安全に暮らしていける世の中になる事を祈ろう。

クミコ、丁寧な記事、写真をありがとうね(*´꒳`*)
Posted by 美智子(^^) at 2017年01月16日 14:53
美智子ぉぉ~♡

コメントありがとう♡(´˘`๑)
返事遅くなりごめんなさい!!!
記事、なんか感想文みたいになっちゃいましたね(笑)
今、戦争を経験した方達が、頑張って平和活動をしてるけど戦後70年以上も経ちこれから、どうなっていくんのかなとか思うよ。
実体験を語る人は、ヤハリすごいもんね。
上手くそれを語次いで平和を維持する事大変だと思います。難しい話になるけど~〜
世界情勢を考えたら不安になるわよ。中国の船が沖縄近海に多いしさ~アメリカ大統領さん
何か大変そう(>_<)
負けずに頑張って行こうね。
Posted by クミコ at 2017年01月17日 23:48
ク、クミコ~、記事良かったよ~。

あぐ華を開いたとたん、対馬丸記事が飛び込んできて、
ナヌ~、対馬丸?と驚きました。
対馬丸の事を詳しく知りたかった私としては、
対馬丸の記事を書いた人がいるなんて、すごい!!!
と、こういう同窓がいる事が嬉しいよ~。泣けるよ~。

中学、高校とスポーツ女子の私としては、沖縄や宮古の史実にうといのです。この年になって、もっと勉強しておけば良かったと思う事が多々あります。
対馬丸の歴史もその中の一つで、昔の犠牲があって、今の平和があるのかなと、昔の方々に、思いを馳せ、そして心を運び、偲んで行く事が、せめてもの自分に出来る事かなと思います。そういう機会を、この記事を通して頂いた感じです。本当に感謝、感謝。有難う~。
また、沖縄、宮古の史実がありましたら、宜しくお願い致しますね。
Posted by S みちこ でした~ at 2017年01月27日 16:05
S ミチコ♡

コメントありがと〜です。
ミチコが喜んでくれて、とても嬉しいわぉ。
コメントに感動しましたぁ!!!
対馬丸記念館は前に行ったあるけど、そこまで頭入ってなかった。この年齢になり興味を持ち、みんなに伝えるために調べて学習しました。
これからも沖縄の事発信していくので宜しくで~す(*゚▽゚*)
こちらこそ感謝だよ...♪*゚♪♪
Posted by クミコ at 2017年01月28日 23:09
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